ブログ名、捨てました

興味ある事が多すぎて書きたいことが定まらないのでブログ名は捨てました

お出掛け 三重県 鳥羽城

神出鬼没、まっさんです。

ごうとぅトラベルを利用して、三重県鳥羽市に行って参りました。 

www.masu-hoi.com

家族の一瞬の隙をつき、趣味である城巡りをしてきました。

鳥羽水族館より線路を挟んだ向かい側にある「鳥羽城」

はたしてどんなお城なのか? 

 

 

鳥羽城 

志摩国 答志郡 鳥羽(現在の 三重県 鳥羽市 鳥羽三丁目 )にあった 日本の城です。

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九鬼嘉隆が文禄3年(1569)に築城。以後九鬼水軍の本拠地となっていました。 大手門が海側に突出して作られるという全国でも珍しい形をしており、この大手波戸水門が出入り口となっていました。

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現在は、鳥羽水族館がある辺りが、大手門水門だったようです。

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真っ直ぐ進もうとすると、段々に石垣が積んでおり、まるで巨人用の階段みたいです。

ちっさいオッサンは手すり付きの階段で横断して登って行きます。

 

三の丸

大手門を過ぎて最初に辿り着くのが三の丸跡です。

(rio-masaki様、ご指摘ありがとうございます。三の丸の間違いです。)

当時の建造物は何も残っていませんが、若者のグループ2〜3組います。

そして、建造物の変わりに横文字でT・O・B・A 「♡TOBA」の文字。

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どうやらSNS映えを狙いに来ているようです。

楽しそうに撮影しています。

少しも羨ましいとは思いません(強がり)

「私は城跡を探索しているのだ」と自分に言い聞かせ先へ進みます。

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三の丸から本丸へ向かう通路の左側を見ると、先程の段々の石垣がありました。

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一段、1メートルほどありますかね。

後ろから「押すなよっ押すなよっ!」

 

続いて本丸へ向かます。

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本丸の石垣は、石を加工しない、野面積み。

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野面積みは戦国時代の初期に見られる技法です。

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この鳥羽城の石垣も当時の物と考えられていますが、はっきりと分かっていません。形も大きさもバラバラ、それを積んだものが何百年も残っているなんて凄いですよね。

 

 

本丸

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ご覧の通り、本丸跡にも何も残っておりません。

3層の天守閣があったそうです。

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お城の心臓部、本丸御殿跡。

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発掘調査が行われたのが平成23年。

ある理由があって、意外と最近に行われたのです。

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本丸で唯一残っているのが井戸の跡。

 

本丸から和歌山、奈良方面を望む。

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山だらけです。逆に考えると山が防御壁となり、お城を建てる場所としては最高です。

 

本丸から伊勢湾を望む。

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最初にも言いましたが、お城の入り口(大手門)が船着き場となっていて、船で出入りをする訳です。

 

二の丸

本丸を三の丸と挟む形であるのが二の丸です。

二の丸は何かの建物が残っていました。

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完全に廃墟です。

とてもじゃないですが、夜一人で来る事は出来ません。

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実はここ、旧鳥羽小学校でした。

先ほど、ある理由があると言いましたが、1929年〜2008年まで校舎として使用されていました。

このため、発掘調査がされなかったのですね。

 

校舎の中から覗かれている気がします。

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校舎は二の丸跡で、先ほどの本丸跡がグランドだったそうです。

戦のための城が、子供達が学ぶ場へ。

築城した九鬼嘉隆も、まさかこんな使われ方をするとは夢にも思っていなかった事でしょう。

この鳥羽城の様に、明治に入り不要になったお城が、学校や公園などの公共施設になっている事が多いです。

 

 

 

最後に

段々石垣をもう一度、じっくり見てみます。

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近くで見ると、斜めになっていて、石垣を登りにくくなっているのが良く分かります。

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登りにくいうえに、上からは恰好の標的、 登っている間はコテンパンに攻撃されます。

入り口は船でしか入れない、裏は山に囲まれている。

本当に段々石垣が九鬼嘉隆の時代の物ならば、良く考えられて造られています。

 

さて、所で「九鬼嘉隆」とは、何をした人なのか、ご存知ですか?

城を見る限り、海に関連してそうですね。

まず、九鬼氏の経歴を見てみます。

九鬼氏は伊勢国司の北畠氏に属し「志摩海賊七人衆」のひとりに数えられていた。
1551年に父・九鬼定隆が死去すると、家督は兄の九鬼浄隆が継いだ。
この頃の鳥羽・志摩には多くの地頭いた。
橘宗忠(たちばなむねただ)の鳥羽衆を筆頭に、小浜民部の小浜衆、荒島左門の安楽島衆(あらしま)、浦豊後の浦衆、千賀志摩の千賀衆、国府大膳(こうだいぜん)の国府衆、甲賀雅楽(こうかうた)の甲賀衆、三浦新助の安乗衆(あのり)、青山豊前の志摩・和具衆、越賀隼人の越賀衆、的矢美作の的矢衆。そして、九鬼浄隆の田城衆、九鬼嘉隆の波切衆があり、志摩地頭13人衆と呼ぶ。兵力は九鬼氏が断然多く、他の地頭達は九鬼氏の勢力拡大を危惧していた。
九鬼嘉隆はこのようにの波切城主として兄・九鬼浄隆を助けていたが、九鬼嘉隆が19歳のとき、伊勢から追われる事になる。
1560年、以前から不仲だった志摩海賊衆仲間の掟に背いたとして、志摩の地頭12人衆が連合軍を起こし、伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城城を攻めた。
これに対して九鬼浄隆と九鬼嘉隆の2人は田城城に篭城するが、篭城中に九鬼浄隆が病死(戦死とも?)してしまう。
九鬼浄隆の子・九鬼澄隆が九鬼氏本家を相続したがまだ幼かったようで、九鬼嘉隆が補佐した。しかし、幼い当主に不安を持ち、戦意が上がらない九鬼勢は惨敗。
九鬼嘉隆と九鬼澄隆ら残党は鳥羽の朝熊山へ逃亡した。

九鬼氏は代々志摩の海賊だったのです。

この後、九鬼嘉隆の代で織田信長に仕える事になります。

そしてここから九鬼嘉隆は織田水軍の大将として大活躍します。

日本初の鉄甲船を製作、毛利の村上水軍との激突、秀吉の時代には、朝鮮出兵の際、水軍の総大将として活躍しました。

この様に九鬼嘉隆は、大河ドラマ主役級の活躍した武将なのです。

しかし、意外と

最後に九鬼嘉隆の名前の読み方と共にお別れしたいと思います。

 

 

九鬼嘉隆→「くきよしたか」