神出鬼没、まっさんです。
岡山県に神出鬼没して参りました。
仕事で寄っただけですけど。
JR岡山駅前。
さすが岡山です。駅前に桃太郎の銅像。
想像通りで感動してしまいました。
しかし、わたしが今回、岡山市へ訪れたのは、桃太郎のためではございません。
「岡山嬢…」ではなく「岡山城」です。
短い自由時間の中で、サササッと向かいました。
岡山駅から、1回100円の路面電車で岡山城へ鬼退治へ向かいます。
お供はいませんけどね。
岡山城
岡山城(おかやまじょう)は、備前国御野郡岡山(現・岡山県岡山市北区)にあった日本の城。
国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)。
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成したお城です。
隣の橋、木橋の方が雰囲気でそうだ。
せっかく岡山城に訪れましたが、残念な事に天守は休業中です。
2021年6月1日から入れません。大改修が行われます。
2022年の秋頃まで工事が行われるそうです。
しかし、あくまでも天守閣だけが休業中で、お城は見学できます。
場内を散策しました。
廊下門
廊下門は岡山城本丸中段(表向)へ入るための門で、搦手門にあたります。
後楽園側から岡山城に入るには廊下門を通ることになります。
櫓門型式の門で、上屋は本段御殿に住む藩主が中の段の表書院に降りる通路として利用されたため「廊下門」と呼ばれました。
門の上から。
1度取り壊されたそうで、現在の姿は鉄筋コンクリート製の復元です。
築城当時の石垣
発掘調査で発見された石垣の実物を展示しています。
宇喜多秀家が築城した後に、江戸時代に入り、城の拡張工事が行われ、当時の石垣は数百年に渡り埋もれていました。
この様な場所が2ヶ所あります。
ちょうど草が、毛が生えてるように見える。
月見櫓
月見櫓は岡山城本丸跡に現存する唯一の櫓で、国の重要文化財に指定されています。
石垣は江戸時代に入ってからの物で算木積み。
月見櫓は第4代城主の池田忠雄が藩主のとき1620年代に建てられたそうです。
この隅櫓は一部地下つきの塗籠造り、本瓦葺き2階建ての建物となっていて、城の外側から見ると2層の望楼型の外観ですが、内側から見ると3層の層塔型に見えます。
なかなか立派な月見櫓です。
本来、月見櫓は月見を目的とした櫓であるため、他の櫓に比べ開放的な構造で極端に開口部が大きいことが多いですが、頑固な造りに見えます。
月見櫓のあった表書院(中ノ段)には岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋があったそうです。
現在は月見櫓以外の建造物は残っておりません。
区画整理のみしてありました。
穴蔵
瀬戸内海に浮かぶ豊島(香川県土庄町)で採れる凝灰岩の豊島石を、いまのコンクリートブロックの様な形に加工し、これを緻密に組み立てた穴蔵である。四面の壁は白い漆喰が塗られていた痕跡が残り、床も石畳となっている。
本来は天井があったとみられる。火薬を貯蔵したとの意見もあるが、そう考えるには藩主の居所に近すぎて危険な位置である。江戸時代を通じては冷蔵庫のような使われ方をしたとかんがえられています。
結構、深い。落ちたら大変です。
表書院から見た、天守閣。
本段へ通じる不明門が閉ざされているため、後ろから向かいます。
出合い頭に鬼!
は、いません。
天守閣
天守閣のある本段です。
岡山城は本丸と言わず、なぜか「段」と記されています。
三層六階建ての望楼形天守閣。
近くで見ると特徴的な天守閣ですね。
下半身がゴツい。
宇喜多秀家の造った構造が昭和20年(1945)6月の空襲で焼失。
現在は鉄筋コンクリートの再建天守です。
再建された際、礎石のみ別の場所へ移動し、元の位置へ配置してありました。
当時の人達は、どの様に運び、どの様に、石の平行を出したのでしょうか。
この場に子供がいたら、石と石の間を飛び越え、忍者ゴッコが始まるでしょう。
閉ざされた不明門です。
こちらも立派な門です。
最後に
ご覧の通り、岡山城に鬼はおりませんでした。
自分を含めたおじさんが、数人ウロチョロしていただけです。
鬼退治がしたい方は別のお城を探してください。
(オヤジ退治はできるかも)
平日のためか、城内は閑散としています。
が、敷地の外に出ると、岡山の街を沢山の人達が行き来していました。
この人達は、一体何をしているのだろうか。
(仕事です)
17世紀末には旭川を隔てた北側に、広大な大名庭園である岡山後楽園が設けられました。
当然、後楽園も行きたかったのですが、旅行ではないので断念しました。
岡山城に限らず、第二次世界大戦で消失したお城は他にもあります。
この岡山城を含め、その内の7つが国宝級だったそうです。
戦争とは、なんて愚かなものでしょう。