お酒好きの皆さん、家にいると飲み過ぎませんか?
わたしなんか、夕食から寝るまで飲み続けていますよ
毎日、何十人、何百人がコロナウイルスに感染し、亡くなっています
恐ろしい事に、今ではそれが普通になってしまいました
慣れとは恐ろしいです
さて、今回は「九州編」です
暇な方は最初からご覧ください
福岡県
黒田長政が那珂郡警固村福崎(現在の中央区)に築城した際、城名を出身地の備前国福岡庄(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんだことによる
備前国の福岡は「丘のある土地」を佳字で表現した地名である
英彦山(ひこさん)
平安時代に入った弘仁10(819)年に、嵯峨天皇の詔(みことのり)によって「日子」が「彦」に改められ、「彦山」になった
更に約1000年の年月を経た江戸時代には、「英」の尊号を受けて「英彦山」と改められた
久留米(くるめ)
久留目とも書き、天慶7年の「筑後国神名帳」三潴(みずま)郡の部に玖留見神を祭祀したとあり、これに由来すると言われる
門司(もじ)
律令制の下において関門海峡の長門国(山口県)側に置かれていた長門関を補完するために、対岸の豊前国に「門司(もんし)」と呼ばれる関所が設置され、後に地名化した
太宰府(だざいふ)
元々大宰府(点がない)で表記をされていた
この名前、「大宰」と「府」が一つになり「大宰府」となります
「大宰」とは、天皇の詔(勅旨)を受けてその地区を治める官のことで「府」が役所の事だそうです
佐賀県
「日本武尊が御巡幸の時、樟の栄え繁る有様を見られ、この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう、とおっしゃった
その後『栄の郡』といい、改めて佐嘉郡と呼ぶようになった」と肥前風土記にある
明治維新に至り佐嘉庁で新政の一環として達示をもって「嘉」が「賀」に改められた
相知(おうち)
南西の伊万里市から松浦川、南東の厳木町から厳木川、南から平山川、東から伊岐佐川(岐佐川)が入り、それぞれ狭い盆地を作りながら流れ、相知町の中心で合流する
松浦川はそこから北流して唐津市に入る
これらの事から、川が「逢う地」に由来すると言われる
太良(たら)
元々、「豊足ノ村」で、訛って「託羅の郷」となったといわれています
昭和28年に町政を布いて多良村が多良町に変わり、昭和30年大浦村と合併して太良町となりました
嬉野(うれしの)
昔、神功皇后が戦いの帰り、この地に立ち寄られ、川中に白鶴が疲れた羽を浸して、 元気に飛立つ様子をご覧になり、戦いで傷ついた兵士を入れてみたところ、実は温泉が 湧いていて兵士の傷が癒えたそうです
皇后が、それを喜ばれ「あな、うれしの」と言われたことが、嬉野になったと伝わります
鳥栖(とす)
古来より朝廷に献上する雑鳥を捕獲し、飼育していた人々が集住していたことから、このエリアは「鳥屋の郷」と呼ばれ、現在の地名「鳥栖」の由来と言われています
大分県
景行天皇がここに来たとき「広大なる哉、この郡は。 よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれます
これが"とよのくに""おおいた"の由来だそうです
安心院(あじむ)
芦が生えていたことから芦生(あしぶ)の里といったのが後に「安心」に転じ、中世に宇佐神宮の荘園となって倉院が置かれたことから「院」をつけて「安心院」となった
臼杵(うすき)
この臼塚古墳の入口に立っている石甲(石で作られた武人の像)が、「臼(うす)」と「杵(きね)」の形に似ており、昔から地元では「うすきね様」と呼ばれ親しまれてきたことから「臼杵」の地名となった
別府(べっぷ)
荘園の租税を特別扱いにすることを表す「別府」に由来します
宇佐八幡宮(皇室の崇敬をうけていた有力な神社)の荘園があったところで、石垣荘と称していたもので、鎌倉時代に豊後の国の国司が「別符」にしていたとされます
耶馬渓(やばけい)
昔の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである
長崎県
地元では野母崎半島を「長い岬」と称していたが、長崎弁では「長か岬(ながか・みさき)」となり、さらにこれが「なんか・みさき」と転訛し、この語が約まって「長崎」になった
壱岐(いき)
邪馬台国に支配下にあった一支国(いきこく)が存在したと記されている
大陸との海上交通の要所であり「行き」を地名とするのが地名の由来とも言われています
生月(いきつき)
生月(いきつき)という島名の由来は、遣隋使・遣唐使の時代に中国から日本へ帰国する旅人が、船上からこの島を見つけると、無事に帰ってこられたと安心してホッと息をついたことから、といわれている
千々石(ちぢわ)
に比遅波(ひじは)とよばれる断崖があり、付近にあった池を土歯(ひじは)池といった
この「ひじは」が転訛して千々石といわれるようになった
雲仙(うんぜん)
当初は温泉と書いて「うんぜん」と読んだのですが、風流な文人らが「雲仙」という字を当てたのが由来と言われています
熊本県
南北朝時代に「隈本」として見られ、慶長12年(1607年)、加藤清正が築城した際に「熊本」と改められた
改められた理由は、「隈」の字に含まれる「畏」の字に「おそれる」「かしこまる」といった意味があるため、城名として強そうな「熊」の字が当てられたといわれる
泗水(しすい)
町内を流れる合志川に鞍岳川、矢護川、若木川、小原川の4本の支流が合流することと、1889年(明治22年)の前身の泗水村成立当時は合志郡であったことから、合志と孔子を掛け、孔子生誕の地とされる中国山東省泗水県から村名をつけたとされる
不知火(しらぬい)
景行天皇の訪問時に由来するそうです
不知火とは熊本県と鹿児島県にまたがる八代海(不知火海)で見ることができる現象のことを言いこれが地名となった
隈府(わいふ)
一国政治の中心を府と称することから、〈隈部の府〉の略称として〈隈府〉の語が生じたと考えられる
阿蘇(あそ)
ここで『日本書紀』によれば、阿蘇国造の祖先でもある阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の2神が登場し、この2神がいたことが「阿蘇」の地名の由来であるとされます
宮崎県
奈良時代に「宮埼郡」で見られ、平安時代の『和名抄』で「宮崎郡」と見られるようになる
「崎(埼)」の付く地名は、突き出た地や先端を意味することが多いが、宮崎の場合は「前(さき)」のことで、「宮前」が語源と思われる
生目(いきめ)
平家の勇猛な武将であった藤原景清にまつわるものです
仇である源氏の繁栄を見たくないと、自らの両眼をえぐって、空に放り投げたところ、この場所に落ちたとされます
飫肥(おび)
古くは小肥とも書いた
地名の由来について「太宰管内志」には「火に負はせるにあらぬか、さもあらば大火の意あり」としてある
火に関わる地名だとされます
えびの
秋になるとススキ野が一面葡萄(えび)色に変わる景色から名付けられたとする説が一般的である
その一方で、入り江(鹿児島湾)を望む火山(韓国岳)の裾野すなわち江火野を語源とする説もあり正確な由来はわかっていない
諸塚(もろつか)
高千穂町との境にあり、国道503号線の飯干峠から車で10分ほど上った六峰街道沿いに登山口があります
山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来です
鹿児島県
「鹿児島」の語源は、天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神宮(わたつみ)に行く際に乗った舟が鹿児山で作られたという説や、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、などがある
伊集院(いじゅういん)
イスノキが多い地であり、平安朝の租税である稲穂を貯蔵する倉院が置かれたことから、「いすいん」と呼ばれるようになったことに由来する
志布志(しぶし)
古くにこの地を訪れた天智天皇が滞在中に主人の妻と侍女がともに布を献上したことを「上からも下からも志として布を献じたことは誠に志布志である」とし、志布志と呼んだと伝えられています
指宿(いぶすき)
指宿=揖宿で、「揖」は「よいとか集まるところ」の意味で、良い宿場や人の集まる宿などの意味だそうです
霧島(きりしま)
天上界より望む、“霧に煙る海に浮かぶ島”それが「霧島」の名の由来と言われています
肝付(きもつき)
鎌倉時代から南北朝の中世紀に南九州の雄として、大隅・都城・日南まで、その勢力を及ぼし大隅半島全域を統治していた肝付家の名にちなんでいます
最後に
以上、九州編でした
九州も変わった地名おおいですね
過去に桃鉄で全国を回っていたので、地名には自信がありました
しかしいざ、調べてみるとほとんど知らない土地だったのです
次回、「沖縄編」でいよいよ最後になります