今回、日本で蔓延している新型コロナウイルスは武漢で発生した物とは別物らしいですね
別物と言うよりも「進化版」でしょうか
もはや、自由に海外や国内旅行へ行けない時代になるのかもしれません
何よりも今までの生活に戻れないかもしれません
少し前にこんな記事を書きました⇩
感染症を抑えるワクチンは開発されていても発症した場合、ほとんど助からないです
人間が唯一、勝ったのが「天然痘」のみだそうです
一国の首相や政府が何度も会見をしている時点で、国家の異常事態だと思います
我々は日本と言う国の為に何ができるでしょうか?
政府のためではなく、自分達の未来のためにです
わたしも先日、仕事で怖い思いをしました
そのことはまた別の機会にお話したいと思います
それでは、今回は「山陽〜四国編」です
前回はこちら⇩
島根県
島根半島の地形に由来し、「しまね(島嶺)」で島状の嶺となっていることからか、「しま」も「ね」も「高くなった所」の意味と考えられる
松江(まつえ)
慶長16年(1611年)堀尾吉晴が亀田山に城を築き、白潟・末次の二郷をあわせて松江と称したことにはじまります
と、ありますが「白潟」と「末次」の二郷の意味が分かりませんでした
宍道(しんじ)
大穴持命(おおあなもちのみこと)(大国主命)が犬を使って猪狩りをしていたところ、その犬と猪が石に化したとされており、「猪」が「肉(しし)」に、「肉」が「宍(しし)」に変化したことから「宍道」の名がついたと言われています
出雲(いずも)
出雲も由来ははっきりと分かっていません
沢山ある説のうち、一つだけ紹介します
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、「八雲立つ」と発したことで「出雲」と名付けたそうです
玉造(たまつくり)
玉造温泉として有名ですが由来としては、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことに由来していると考えられている
山口県
「 山口」という地名は、阿武郡にある「山の入り口」に由来するそうです
下関(しものせき)
明治期には「馬関」の呼称が有名だった
都に近い方から「上」「中」「下」の関があったことに由来する
壇ノ浦(だんのうら)
「壇」と祭祀を行うため、1段高くしつらえた場所
神功皇后が三韓征伐へ向かう際、祈りのために「壇」を設けた事に由来する
岩国(いわくに)
「海辺」という地理的景観から「宇部」になった
この地域に、ムベ(トキワアケビ)という特産の植物が繁茂していたから
応神天皇が設置した「宇治部」という古代部民集団の居住地名からなど、はっきりしていない
防府(ほうふ)
奈良時代以後、周防国の国府が置かれた都市(国府、府中)であり、現在の都市名も周防国の国府に因む
香川県
「かが川」の転で「かが」は平坦な草地を意味するという説と古来より雨量が少なく、夏期に水枯れする河川が多かったことから、「かれかわ(枯川)」が転じて「かがわ」になったとする説がある
紫雲出(しうで)
この地には竜宮城伝説で知られる、あの浦島太郎が住んでいたそうです
浦島太郎が玉手箱を開けて、玉手箱から出た白煙が紫色の雲になり、山にたなびいたことから、紫雲出山(しうでやま)と名付けられたと伝わる
高松(たかまつ)
最も古いもので平安時代前期の「和名類聚抄」に出てくる当時の地名である「多加津(たかつ)の郷」というのが転じて「高松」になったとする説がある
金毘羅(こんぴら)
サンスクリット語の「クンビーラ」、水の神様の名前が語源だといわれています
愛媛県
古くは古事記上巻のイザナギとイザナミによる国生みの段に、「伊豫國謂愛比賣」(伊予国は愛比売と謂ひ)と見える
のちに「愛比売」が「愛媛」へと転化したと考えられています
松山(まつやま)
天下を収めていた徳川家康の姓である松平の「松」をもらい、それ以前の例として奥州会津の城を「若松」城、信州川中島の城を「松代」城と改めたように、「勝山」を「松山」と改めたそうです
今治(いまばり)
慶長6年(1600)藤堂高虎がこの地を統治する際に「これからこの地を治める」の意を込めて「今治」と命名したと伝えられます
道後(どうご)
道後温泉で有名です
伊予の国があった愛媛地方では国府が置かれた地域を「道中」と呼びました。そして、伊予の国の中でも「道中」を除いた京に近い地域を「道前」、遠い地域は「道後」と呼ばれるようになりました
則(すなわち)
三間川に沿った「洲の内」にあったことからこれが転訛したと言われています
徳島県
吉野川河口で川に囲まれた三角州だったことから「島」、それに縁起の良い「徳」が冠されたと思われる
宍喰(ししくい)
時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった
鳴門(なると)
鳴門海峡は瀬戸内海と太平洋を結ぶ戸に見立てて、海峡に発生する渦潮の音の大きさから「鳴門」と呼ばれるようになったといわれている
阿波(あわ)
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた
和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された
撫養(むや)
「船をつなぐ」と言う意味の「舫う(もやう)」の転訛で、船を繋ぐ共同作業にちなむとと言われています
わたしも消防団員の頃、「舫い結び」と言うロープの縛り方をならいました
高知県
「大高坂山城」が鏡川と江の口川に囲まれた地にあったことから、山内一豊が入城した際、真如寺の僧「在川」によって、「大高坂山城」から「河中山城(こうちやまじょう)」と改名された
しかし、水害が多く「河の中」という水害を想起させる地名「河中」が改められることになりました
「こうち」という呼び名はそのまま残し「高智」という漢字を当てたのは竹林寺の高僧・空鏡です
高智の「智」はその後「知」と変化し、現代の「高知」に至るそうです
後免(ごめん)
江戸時代、土佐藩の奉行だった野中兼山がこのあたりに商業地を開設するとき、へんぴな場所だったので租税や諸役を免除したことに始まります
諸役御免の「御免町」が転じて、「後免町」になったそうです
梼原(ゆすはら)
町名は、そろばんの玉などに使用される、檮の木が多く自生していたことに由来だそうです
物部(ものべ)
古代の豪族、「物部氏」の一族が住み着いた事が由来と考えられています
宿毛(すくも)
今から3000~4000年前、宿毛は遠浅の海岸で、満潮時には海水が押し寄せてくるほどの湿原で、葦が生い茂っていた。 古代の人達は枯れた葦を「すくも」と呼んでいたのが由来
最後に
時間はあるのに、由来を調べていると何故か眠くなってしまいます
仕事も昔の様に疲労が溜まる事はありません
さらに最近、寝落ちする事が多くなってきました
調べ事(勉強)が嫌いなだけなのか?
それとも、歳なのか?
我々は知る由もないのです
次回は「九州編」です