神出鬼没していない、まっさんです
地名の由来を調べて、北海道から遥々やってきました
(妄想)
今回は、「東海〜近畿地方」です


東海地方(愛知)と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑の出身地です
実際、「御殿場」や「岐阜」は彼らに関わりがありました
この他にも、三英傑由来の地名が出てくるのか楽しみです
愛知県
万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている、「年魚市潟(あゆちがた)」の「あゆち」が「あいち」に転じたと言われています
三河(みかわ)
豊川・矢矧川(矢作川)・男川の大きな皮が3本流れているからと言うのが定説
春日井(かすがい)
その昔この辺り一帯は荒野で春日井原と呼ばれていた
その領地を管理していた人たちを「春日氏」や「春日部」と呼んでおり、それが地名となり春日井となったとされます
桶狭間(おけはざま)
「桶」は「ホケ」のことで崖の意味
桶狭間は「物と物の間で狭くなった所」という意味
つまり「崖のある狭い谷間」が由来と言う事です
極楽(ごくらく)
名古屋市の西側は西庄と呼ばれる低地が続き、木曽川・庄内川などの度重なる洪水で多くの被害を受けてきた。そこで住民は安住の地を求め、山深からず、水多からずのこの高針の地を発見して、ここを安住の地と決め、「極楽」とした
大府(おおぶ)
「大夫」「大部」「大符」と書かれていたといいます
大夫は、中古に行われた獅子舞のことであり、伊勢神楽と性質を同じくするものです
この獅子舞の大夫にちなんで、それが村名となったとされます
武豊(たけとよ)
長尾村の武雄神社と大洗村のと輿石神社からそれぞれ1文字づつとって「武豊町」とつけたそうです
三重県
日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に着いた際、足が三重に曲がるほど疲れたことから名付けたという話があることから、この伝説が通説となっている
英虞湾(あごわん)
「あご」=「なぎ(凪)」で凪は古くは「なご」と言った
また、その昔は「あご」といった「静かな湾」の意味
桑名(くわな)
「くわな」は「くははる(加)」で、新しく加わった(開かれた) 土地を意味する
伊賀(いが)
伊賀の由来は説が7つもあった
一、険しい山の意のイカに由来する
二、恐しいの意のイカルに由来する
三、山栗のイガに由来する
四、伊許速別命(垂仁天皇の皇子)の名にちなむ
五、伊賀臣の居住地にちなむ
六、安我津媛の安我が伊賀に転化した
七、アイヌ語(北海道のエゾ語)の山越えの意のイカに由来する
松阪(まつさか)
城下町を開いた蒲生氏によってなずけられたようです
明治より前は「松阪」の阪の字は、こざとへんの「阪」ではなく、つちへんの「坂」を用いていたようです
滋賀県
「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」をいったとする説と、「スカ(砂処・州処)」の転とする説がある
信楽(しがらき)
信長の政策「楽市楽座」を略して「信楽」
では、なく
良材が多い為、「茂る木」が「しがらき」になった説や、奈良時代に聖武天皇が遷都しようとした「紫香楽宮」が由来と言われている
膳所(ぜぜ)
古くは陪膳浜 (おもののはま) と呼ばれ、かつて宮中の食卓に魚を供する地であったことに由来とされる
栗東(りっとう)
競馬ファンならば、誰もが一度は見聞きした事があるでしょう
栗太郡の東に位置することに由来しています
竜王(りゅうおう)
鏡山を「西の竜王山」、雪野山を「東の竜王山」と呼んでいたらしく、昭和30年、この地にあった苗村と鏡山村が合併する際に、それぞれの山の共通の名称である「竜王」を地名として名付けたのだとされているようです
京都
東アジアでは古来、歴史的に「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた
その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が平安京の固有名詞のようになり定着していったそうです
化野(あだしの)
化野の名は「無常の野」の意で、人の世のはかなさの象徴としても用いられた
転じて、火葬場、墓場の意味とも解釈される
これは読めません
太秦(うずまさ)
ダビデ王の側近のウザなる人物が護衛して失われたアーク=神の箱を運んだ
”運ぶ”をヘブライ語でマサと言うためなど、ヘブライ由来説や
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説がある
祇園(ぎおん)
古代インドにあった「祇樹給孤独園」と呼ばれた僧園の名前を略して生まれたと言われます
蹴上(けあげ)
当時、牛若丸と名乗っていた源義経が奥州へ向かう途中、この場所で関原与一の一行に出会ったが、その従者が誤って水を蹴り義経の衣を汚してしまった、という事から「蹴上」と呼ばれる様になった
先斗町(ぽんとちょう)
ポルトガル語のPONTからきているとも言われています
間人(たいざ)
争乱を避けるため丹後に身を寄せた穴穂部間人皇女は、丹後を去る際、自分の名の「間人(はしうど)」を村の人々に贈りました
しかし、人々は「皇后のお名前をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后がその地を“退座”したことに因み「間人(はしうど)」を「たいざ」と読むことにした
これが由来と言われています
紫野(むらさきの)
船岡山と大徳寺を中心とする一帯は、平安京に都が移された後に天皇や貴族の遊狩地とされ、そこには染色に使う紫草が生えており、その色がたなびく雲に映って紫になっていたという説があります
奈良県
平らにするこという「ならす(均す・平す)」と同源の「ナラ(平・均)」で、緩やかな傾斜の平らな土地を表した地名と考えられているようです
飛鳥と明日香(あすか)
「あすか」もいくつか由来があり、仏教発祥の地であるインドの「アショカ王」の名前から転科したものではないかという説がある
他にも4世紀から7世紀に抱えて中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々として知られる渡来人ですが、渡来人が利用し、安住の宿とした場所は「安宿」と名付けられました
「安宿」は朝鮮語で「アンスク」と言いますので、これが訛って「アスカ」になったのではないかとされています
御所(ごせ)
孝昭天皇の御諸(みむろ)が「御所」に変わったとする説があります
斑鳩(いかるが)
この地に斑鳩という鳥(はと?)が群をなしていたためだと言われています
當麻(たいま)
日本武尊が巡當麻 行の時、その命に服しない佐伯鳥日子を攻めるのに、その地が道狭く、たぎたぎしかったことから、そこを當麻と言われました
葛城の當麻の地も険しい土地であったことから、このタギマがタヘマ、タイマと変化したとされています
御杖(みつえ)
第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇女「倭姫命(やまとひめのみこと)」が、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊を奉じる大神宮の候補地を求め、御杖村を訪れた際、その印として自らの「杖」を残したという伝説に由来している
海石榴市(つばいち)
「海石榴」は植物の「椿」の事で、古来この一帯は椿が咲いていた事が由来と言われています
最後に
東海〜近畿地方の一部でしたが、いかがでしょう?
印象としては、京都と奈良のスペックが高すぎて、他の地名がかすんでしまいました
やはり歴史の古さが違います
奥が深いし、漢字読めません
はたして、これらを越える都道府県は現れるのか?
次回は「近畿〜山陽編です」